夫婦二人三脚で追った夢への軌跡|画家・松永健志/33歳
「2年前まで職業欄に『主夫』と書いていた僕が、今は画家と書けるようになりました」
ある日、Facebook(フェイスブック)のニュースフィードにこんな投稿が流れた。投稿主は、画家・松永健志(33歳)。金に染め上げた髪と髭がトレードマークで、そのほがらかな表情は、周囲を笑顔にする。そして、隣にはいつも、妻の裕子さん(33歳)がいる。
松永の油絵は、日常の中にあるプロダクトや風景を対象にしたものが多い。
「油絵は光を捉えるのが醍醐味かな」
そう語る松永の描く作品たちは、写真のピンボケのような絵だ。物体が浮き出すような、かつ、みずみずしさを感じさせる松永の油絵のタッチは、見るものの感情をわしづかみにする。
アーケードで始めた路上販売
生まれも育ちも熊本市の松永。小学5年生の写生大会をきっかけに、絵をよく描くようになった。SFアクション映画「フィフス・エレメント」登場人物の、近未来的な衣装に魅了されてからは、ファッションデザイン画を頻繁に描くようになる。
高校を卒業した松永は、「服が好きだ」と思い込み、東京の文化服装学院に入学。しかしいざ入学し、服の生地に触れてみたが、全く興味を持つことができなかった。
「服じゃなくて、絵を描くことが好きだったんだ」
そう気づいた松永は結局、3カ月で退学した。
熊本に戻った松永は、中心部の下通アーケードで、「TKC(ティーケイシー)」の名で路上販売を始めた。当時描いていた絵は、水彩やアクリル絵の具による抽象画。原色を使った色調の濃い作品を路上販売する生活を、4年間続けた。
当時の松永を知る人々は一様に、「地に足が着いておらず自分の居場所を模索している」との印象を受けたと口にする。しかし、その4年の中で、松永はある人と出会う。
松永の妻・裕子さん。出会いは、友人との待ち合わせがきっかけだった。
「友達が街で路上販売しているから、そこで待ち合わせしよう」
待ち合わせをした場所が、松永の路上販売の定位置だった。出会ってその日のうちに仲良くなった2人は、すぐに付き合い始めた。
「画家になるのは諦めよう」
路上販売で実力を磨いた松永は、「画家として夢を追いたい」と、裕子さんと一緒に22歳で再び上京。毎日にようにママチャリの荷台に裕子さんを乗せ、自作の絵を詰めた重さ約10キロのリュックを背負い、原宿へ。そこで路上販売を展開した。
当初は絵がどんどん売れていったが、リーマンショックの影響のせいか、その後、まったく売れない時期が訪れた。
当時、二人が住んでいたアパートの家賃は月8万円ほど。収入源が無くなった2人は、節約に節約を重ね、ついにはジャガイモだけで食いつないだ。あばら骨が浮き出るほどやせ細った2人。現在と比べて、ともに25キロほど細かったという。そんな食生活がたたり、裕子さんは体調を崩した。
「夢を追いながら、生きていくのは無理なんだ」
とにかく毎日を生き抜くためには、金を稼がなければならない。それから2人は、バイトに明け暮れた。松永は、パチンコ店と激安ディスカウントストアで、ダブルワーク。裕子さんは、コーヒーチェーン店で働いた。バイトに追われ、松永はいつのまにか絵を描くことができなくなった。
「画家になるのは諦めよう」
日々を生き抜くために必死になっていった松永から、1つの夢が消えた。
「自分たちの未来予想図を」
画家になる夢を諦めた松永は、しばらくして、東洋美術学校夜間部のグラフィックデザイン科に入る。画家は諦めたが、これまで身につけたスキルを生かせる仕事に就こう。そう考え、1年間という短期間ではあったが、専門学校に通った。そして、人生で初めての就職活動を経験。履歴書や面接の練習など、裕子さんのサポートを受けながら、何十社もの就職試験に挑んだ。しかし、結果はすべて不採用だった。
「たけ(松永)には、会社勤めは向いてないのかもしれない」
裕子さんがそんなことを考えていたとき、2011年3月11日を迎えた。
大地震、そして大津波。それに伴う福島第一原子力発電所の事故。これまでに経験したことのない不安な日々を送った2人は、次第に地元が恋しくなっていった。
「都会のコンクリートジャングルは、性に合ってないのかもしれない」
27歳の2人は、東京から逃れるかのように、熊本に帰郷した。
熊本に帰った松永は、阿蘇の牧場で働いた。一方裕子さんは、阿蘇の麓・西原村のカフェで働いた。阿蘇の雄大な自然と新鮮な空気。都会にはない自然に触れたことで、絵に対する意欲が戻ってきた。
「もう1回夢を追いたくなっちゃった」
その言葉を聞かなくとも、察していた裕子さん。
「自分たちの未来予想図を描こう」
もう一度2人で夢を追う決意をした。
アートアワードでつかんだ画家のチャンス
当時住んでいたのは、家賃月6万円のアパート。松永のバイト代は月11万円、裕子さんは月10万円。これから夢を追っていくことを考えると、生きていくためには、6万円の家賃は、少々厳しい。
「これからは、たけが『夢担当』で、私が『現実担当』になろう」
団地に住めば、もっと家賃を抑えられる。でも、今の関係性では、団地に入居できない。「じゃぁ、籍を入れようか」。2013年、2人は28歳で夫婦となった。
それから3年間、夢担当の松永は、団地でひたすら絵を描いた。「現実担当」の裕子さんは、働いた。
以前は、水彩やアクリルの絵を描いていた松永。「本気で画家を目指すなら油絵にも挑戦しよう」と考え、独学で油絵を習得。熊本市現代美術館に通い、油絵画家の画集を読み漁ることもあった。
2015年、31歳の2人に転機が訪れる。熊本市の旧繊維問屋街・河原町で開催される「河原町アートアワード(KAA)」への参加だ。KAAは、県内外のクリエイターを対象に、ゲスト審査員や地元企業、一般鑑賞者らが、作品の公開審査を行うもの。個展開催や作品販売のチャンスもある。
松永は、熊本の街並みや建物、花などを描いた油絵を出品した。努力の賜物か、18ある賞のうち、なんと4つもの賞を獲得することができた。2人にとって、夢のような瞬間だった。
2017年、市内のギャラリーで、念願の初個展「200円2000点の小品たち」が実現した。ひたすら描きためてきた、ポストカードサイズの色鉛筆画と、油絵作品たち。1年間かけポストカードに描いた色鉛筆画2000枚は、絵を身近に感じてほしいとの思いで、自分の身の回りのモノを描き、200円で販売した。
1カ月に及ぶ初個展は、夢のような日々だった。感想ノートにつづられる参加者の言葉の数々。毎日、うれし涙が絶えなかった。そして、2000点もの松永の作品たちは、完売した。
この個展をきっかけに、仕事の依頼や個展の誘いも来るようになった。
「2年前まで職業欄に主夫と書いていた僕が、今は「画家」と書けるようになりました」
冒頭の投稿は、この時のものだ。夢に描いていた「画家」に転身した瞬間だった。
「絵を身近な存在に」との使命感
「画家」となった松永健志。「画家の妻」となった裕子さん。以前と生活は一変した。
「今が夢の中にいるみたい。たけには、夢を見させてもらっている。幸せ」
「ここまで来ることができたのも妻のおかげ。妻がいないと生きていけない。僕にとって天使みたいな存在」
誕生日や記念日、クリスマス。2人で祝ったことは一度もない。財布は2人で1つ。スマートフォンも2人で1つ。画家になってからも、2人は常に二人三脚だ。
平日6~12時間は無心で絵を描き、土日は休む生活を送っている。絵を描くことが、仕事であり、日常となっているのだ。
「僕は、子どもの頃から両親に美術館に連れて行ってもらっていました。気が付くと、子どものころから絵が好きで、絵に癒され、絵に助けてもらっていた気がします。僕にとって絵は『身近な存在』でした。『絵を身近に感じてもらいたい』との思いから、身近なものを絵に描いています。絵に与えてもらった分、恩返しするのが僕の努めなんじゃないかな」
夢を達成し、充足感に浸る時期は過ぎた。これからは使命感を胸に、二人三脚の人生は続く。
Astray Goods Life ライター。舞浜の「夢の国」をこよなく愛す乙女。仕事終わりにインコと遊ぶことが楽しみ。