「楽しさ」と「ものづくり」の関係性|クラフトマン・飯島晃史/45歳
熊本市の中心市街地にある、大型書店。その男性とは、秋が深まったころ、1階のイベントスペースで出会った。革のバッグや毛皮を使った小物、照明などを販売するブースを出展していたその男性。色、形、どれを取っても独創的なアイテムが多く、広い店内でひときわ目を引いた。聞くと、すべてその男性の手になる品だという。男性の名は、飯島晃史(45)。穏やかな口調で、自然な笑顔が絶えない。なんでも、もともと銀行員だったという。そんな彼がなぜ、ものづくりの世界に飛び込んだのか。彼のこれまでの歩みが気になった。
家族を襲った東日本大震災
生まれも育ちも神奈川県川崎市。幼いころから、絵を描くことが好きだった。絵を描いて生きていけるような仕事に就きたいと、日本デザイナー学院でグラフィックデザインを学んだ。卒業後は、東京の広告代理店に就職。グラフィックデザイナーとして、紙媒体のデザインをこなした。しかし、仕事は連日深夜まで及び、徐々に体が悲鳴を上げて行った。そしてついには、体調を崩した。3年半働いたグラフィックデザイナーの職種から、退いた。
「もうこんな働き方は辞めよう」。勤務時間がきっちり決まっている仕事を求めた飯島。民営化前の日本郵政の求人を見つけ、試験を受けた。結果は合格。晴れて新たな職を手にした。
広告代理店時代と比べれば、時間通りに終わることが多かった郵政の業務。仕事以外の時間は、趣味にあてた。体調を崩した経験から、体を動かすことも増やした。人生の伴侶を見つけ、結婚もした。
しかし、2007年の郵政民営化。それにより、それまではなかった「ノルマ」を課せられるようになった。外貨や時価の数字とにらめっこしながら、客を相手に営業トークを展開する日々。「本来の自分はいなかった」と当時を振り返る。
そんな毎日に嫌気がさしていたころ、2011年3月11日。東日本大震災が発生した。それに伴う福島第一原子力発電所事故。当時、福島第一原子力発電所から100キロ圏内には、放射能汚染の恐れがあるといわれていた。幼い息子2人を持つ飯島は、恐怖を覚えた。
すがる思いでミシンを買った
「放射能」という見えない恐怖から逃れるため、妻、2人の息子、母、祖母とともに、九州に移住することを決意する。実家の家も土地も売り払い、何のあてもなく、福岡に移住した。
移り住んだのは、繁華街である天神エリアまで、電車で15分ほどの街。仕事のあてはなかった。バイト、アフィリエイト、ほかにもさまざまな仕事に挑戦してみたが、どれも長続きしなかった。退職金も使い果たした。ついには、専業主婦だった妻も、働きに出た。そこに希望は、なかった。
ある日、同じタイミングで関東から熊本に移住した知人から、連絡が入った。
「熊本に良い物件があるんだ。こっちに越してこないか」
熊本を訪問したところ、自然の豊かさに心打たれた。家族も気に入った様子で、一家で移住を決意した。
移住したはいいが、飯島には手に職がつくような仕事がなかった。自分が何をしたいのかもよく分からない。思いを巡らせたところ、もともとアパレルが好きだったことを思い出した。気軽な気持ちで、一方ですがるような思いで、飯島は1台のミシンを買った。
誘ってくれた知人にそのことを伝えると、こう提案された。
「実は飲食店を開くことになった。試しにバッグか何かを作って店で売ってみないか」
一切の経験のない自分が、ものを作って、販売する。そんなことをしてもいいのだろうか。そんな戸惑いもあったが、飯島は見よう見まねでバッグを作り、店に陳列してもらった。すると、そのバッグが、すぐに売れた。
自信がなかっただけに、少し申し訳なさも感じたが、何よりもうれしかった。そしてものづくりの楽しさを知った瞬間だった。
「売れたい」のではなく「楽しみたい」
それからというもの、創作活動に没頭した。バッグだけにとどまらず、自分が作りたいと思うものには、迷わず挑戦した。照明、帽子、エプロン、小物入れ。柿渋や剣道着など、さまざまな素材を組み合わせ、オリジナルのアイテムを生み出していった。ある時は、熊本県八代市の特産品・イグサも用いた。「日本古来の伝統的な素材の良さを今にアップデートしたい」。そんな思いも芽生えてきた。
しかし、売れない時期は精神的に苦しかった。熊本市内の書店で、期間限定の店頭販売を開催したことがあった。「売らなきゃいけない」という思いが、次第に強迫観念となり、飯島の心を襲った。結果、アイテムはまったく売れなかった。
収入、利益、予算、材料費…。飯島の精神は、次第にお金に縛られていった。「この先どうなってしまうのだろう」という不安が常につきまとうようになった。ふと、自分自身が楽しむことを忘れているということに気がついた。そんな思いで作ったアイテムが、売れるはずはない。自分の気持ちとアイテムのクオリティーは、連動しているのだ。
「やっぱり、自分が楽しいと思うことが大切なんだ」
初心に戻って「楽しい」と思う気持ちを、追求することにした。
ある日、書店のスタッフから、再度連絡があった。全く売れなかった嫌な記憶は頭にあった。しかし、逃げずに挑戦することにした。
秋に開催した書店での店頭販売。お客さん自ら商品を手に取り、飯島に積極的に声をかけてくれた。飯島は、お客さんと直接会話できることに、感謝の念を抱いた。自分が作っていて楽しいと感じるアイテムを、認めてくれる。そして、そうした人とつながることができる喜び。飯島のアイテムは、次々と来場者の手に渡っていった。
自分が楽しいと思うことが大切
「今は『売ろう』という気持ちはありません。売れなくてもいいから、自分が楽しいと思うことをとことん追求してやる。楽しく作れたという思いが喜びにつながり、やりがいとなるんです」
ものづくりを始めてから3年半。飯島は熊本の地で、紆余曲折しながらも、自分らしく生きるスタイルを見つけた。
「とにかく『今』が楽しくて仕方がない。満たされています。今の状況で十分な気もしていますが、欲を言えば、アトリエ兼ショップを構え、もっと直接人と接することができる機会が増えればいいかな。そして、ゆくゆくは日本古来の伝統的な素材をもっと生かして、世界にも挑戦したい」
自分の楽しいと感じるものを追求していった結果、今の飯島がある。飯島の前に続く道に、光が射して見えた。
Astray Goods Life ライター。舞浜の「夢の国」をこよなく愛す乙女。仕事終わりにインコと遊ぶことが楽しみ。