元パリコレモデルが語る人生の選択 山口剛史/39歳(前編)
午後7時半のJR新宿駅・新南改札。約束の時間ぴったりに、男は現れた。
改札を出てすぐこちらに気がつくと、ちょこんと頭を下げ、歩を進める。すらりと伸びた手足、軽くウェーブのかかった黒髪、黒で統一したスタイリッシュなファッション。身長187センチメートルというが、鋭い眼光が醸し出す独特のオーラが、それ以上の高さに感じさせる。
「どうも、お疲れ様ですっ!」
見た目からは想像できない、腰の低さに、拍子抜けした。
男の名は、山口剛史(39歳)。現在はテレビ番組などのCGを制作する会社「アレックス」の代表取締役を務める。
今でこそ、毎日夜遅くまでパソコンと向き合う生活を送る山口だが、かつてはモデルとして活躍。パリ・コレクション(パリコレ)出演の経験も持つ。「今の生活は好き」という山口の、紆余曲折の人生とは、一体どのようなものだったのか。
兄へのコンプレックスから芸大を志望
山口が生まれたのは、福岡市西区。祖父の代から続く整体院を営む両親のもとで、すくすくと育った。だが、中学に進学したころから、毎日が面白くないと感じるようになった。
山口には、兄が2人いる。山口は、とにかく女性にはモテたが、勉強の方はあまり芳しくなかった。一方の兄たちは、いずれも成績優秀。コンプレックスだった。その面で比較されることも多く、山口はだんだんと腐っていった。
「ああ、面白くないな。どうやったら兄貴たちみたいにうまくやれるんだろう」
そうこうしているうちに、兄2人は慶応大と早稲田大に進学し、上京していった。残された、高校生活も終盤にさしかかっていた山口。なんとかして追いつきたい、という焦りがあった。でも、今から勉強を頑張っても追いつけっこない。
悩む山口に、母親が言葉をかけた。
「美大があるよ」
「え、なにそれ?」
「絵を勉強できる大学」
専門的に学んだことはなかったが、絵を描くことは以前から好きだった。保育園に通っていたころ、友人からせがまれ、キン肉マンやキャプテン翼に登場するキャラクターの絵を描いてあげていた。「発注してもらえている感」がうれしかった。
忘れていた記憶を懐かしんでいると、母親が言葉を継いだ。
「例えば東京芸大は、東大くらい狭き門なのよ」
兄貴たちに肩を並べられるキャリアだーー。たったそれだけの理由で、この瞬間、山口は志望校を決めてしまった。
世間話がモデルの“オーディション”
元グラフィックデザイナーのアトリエが地元にあると聞きつけ、門を叩いた。毎日通い、まずは徹底的に基礎を身につけた。よし、受かるかもしれない。東京芸大デザイン科に出願。しかし、かすかな自信は、合格発表の日にもろくも崩れ去った。
浪人時代の山口。日々、芸大の一次試験であるデッサンの練習をこなした
受験者らは、幼いころから美術を学んできた猛者ばかり。一方の山口が勉強したのは、1年足らず。多感な時期だっただけに、落ち込みも大きかったが、すぐに切り替え、地元で浪人生活を送った。しかし、2年目の結果も不合格だった。
「(芸大がある)東京に行かなければだめだ」。山口は上京し、芸大専門の予備校に通った。「兄貴らと肩を並べたい」との思いで足を踏み入れた芸大の受験競争。いつしか、芸大に合格することだけが、人生の目標となっていた。
予備校の授業がないある日。同時期に上京していた幼馴染と再会するため、連絡をとった。待ち合わせ場所は、渋谷センター街。すると突然、声をかけられた。
「スケザネトモキって知ってる?」
「知らねえよ」
「今度雑誌の撮影があるんだけど、興味ない?」
「金くれるなら興味ある」
声をかけてきたのは、人気ファッション誌「メンズノンノ」のスタイリスト・坂本真澄(さかもとますみ)氏。後から知ったことだが、素人にモデルになってもらうという、メンズノンノの企画のために街で声をかけていたのだ。
数日後、山口の携帯電話が鳴った。
「オーディションがあるので、こちらまで出向いてもらえませんか?」
「そっちから誘っておいて、なんでわざわざ俺が出向かなきゃなんねえんだ」。口にはしなかったが、そう思った。しかし、当時は浪人生。お金に困っていたため、臨時収入が得られるのならと、渋々足を運んだ。
指定された場所は、スタイリスト界の重鎮・祐真朋樹(すけざねともき)氏の事務所だった。到着するとすぐに部屋に通され、祐真氏としばらく世間話をした。すると、数日後に表参道で待ち合わせようと告げられた。世間話が“オーディション”だったのだ。芸大受験に苦しむ山口だったが、オーディションはすんなり合格をもらった。
5度の受験失敗でイタリア行きを決意
早朝の人がまばらな表参道。メンズノンノの巻頭特集の、スナップ撮影が行われた。怖いもの知らずの山口は、自然体で撮影をこなした。撮影は順調に進み、予定時間内に終えた。
撮影後、スタッフらと表参道のカフェで朝食会が設けられた。
大きな皿に、野菜やハムが丁寧に盛られている。皿の横には、ナイフとフォーク。親から厳しくしつけられていた山口は、料理を器用に口へと運んだ。その様子を目で追っていた女性編集者から、こう言われた。「あなた育ちいいでしょ」。
その女性編集者とは、のちにメンズノンノの編集長となる日高麻子氏。現在はUOMOの編集長を務める、業界の実力者だ。
数日後、再び携帯電話が鳴った。「またモデル頼みたいんだけど」。日高氏からだった。山口のモデル人生が始まった瞬間だった。
定期的にモデルの仕事をもらえるようになったが、それでも一番の目標は芸大に入ることだった。
芸術の道に進む手段は芸大だけではなかったが、兄たちが順調にキャリアを築いていたことに対し、まだ焦りもあった。自分の望みを叶えるには芸大合格が絶対必要だと、頑なに執着した。
予備校に通うのは最後と決めた年、予備校主催の全国絵画コンクールで、優勝した。予備校には通わなくなったが、アルバイトをしながら翌年も受験。しかし、受験の神様は微笑んではくれなかった。5回目の不合格。しかも、一次試験すら一度もパスできないという有様だった。
芸大合格だけを目標にしていた山口は、どうしたら良いか分からなくなった。しばらくの間、抜け殻になった。
そんな息子が、あまりにも不憫(ふびん)だったのだろう。母親から、こう告げられた。「お金は支援してあげるから、海外に出てみたらどう? 世界を見てきなさい」。
ハッとした。そうか、受験だけが人生ではないんだ。世の中にはいろんな道があるんだ。
親に甘えることに気が引けなかった、といえば嘘になる。しかし、このままではだめだ、と思っていた山口は、日本を出ることを決めた。
行くと決めたら、次は行先だ。高校時代から、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品が好きだった。画家、彫刻家、科学者、建築家。マルチな才能への憧憬(どうけい)があった。また、大好きなサッカーも観戦できる、との思いもあった。「イタリアだ。イタリアに行きたい」。山口の新たな挑戦が始まった。(敬称略)
(後編に続く)
Astray Goods Life のライター・編集者。Astray Goods Japan 代表。高校講師、新聞記者を経て独立。趣味は民族楽器とランニング。