道に迷うということは、自分に正直であること|山口剛史/39歳(後編)
芸大受験を諦めた山口剛史(当時22歳)。2001年6月、その姿はイタリア・フィレンツェにあった。
自分の人生を生きている実感がなかった
受験に失敗し、挫折を味わった人生だが、納得した人生を歩むんだ。そうした思いを胸に、ここまで来た。
頼れるのは自分だけ。がむしゃらにイタリア語を勉強した。すると、数カ月後には日常会話に困らない程度まで上達した。
スイス、ポーランド、ドイツ、イギリス、アメリカ、ジャマイカ。語学の上達とともに、イタリアだけでなく、ヨーロッパを中心に、さまざまな国の友人ができた。17歳で美大受験を志してからというもの、内にこもることが多かった山口。しかし、イタリア語の上達とともに、だんだんとコミュニケーションを取ることに喜びを感じるようになった。
語学学校は、同じタイミングで入学するとは限らない。数多くの出会いとともに、別れも次々とやってくる。出会いを大切にしたい。そうした思いから、日常的に友人へ手紙を書くようになった。置き手紙や小さく折りたたんだ手紙。毎回必ず、感謝の言葉を添えた。
手紙に加え、コミュニケーションの手段として絵を描いた。よくよく考えると、これまで受験のためにしか筆をとったことがなかった。
しかし、他人のためになら描けた。人に喜んでもらいたい。そう思うと自然と筆が動いた。この時、絵を描くことに対しての、新しい楽しみ方を知った。
ミラノコレクションのオーディションに挑戦
ある時、語学学校の教師からこう告げられた。「ミラノコレクションに出てみたら?」。即座に「E non e possibile!!(無理だよ!)」と口にしたが、教師は「ハンサムだから大丈夫だよ」と、自信たっぷり。意外といけるのかもしれない、との思いが頭をよぎり、実家に電話した。「俺が出ている雑誌を送ってくれ!」。
ミラノでファッションを勉強していた友人のつてをたどり、モデル事務所に話をしにいった。すると、持参した雑誌が効果的だったのか、すんなりと所属することになった。「これはいける」。そう思い、ミラノコレクションのオーディションを片っ端から受けた。
しかし、オーディションは全滅だった。それから間もなく、帰国。出版社に電話した。イタリアでオーディションを受けるうちに、帰国してからもモデルを続けよう、という思いが芽生えていた。かつて世話になった雑誌担当者に「日本に帰ってきました。これから本格的にモデルをやってみようと思います」と告げると、歓迎してくれた。
夢に見たアラーキーとの仕事
アルバイトで生活費を稼ぎつつ、日本のモデル事務所に所属。メンズノンノやスマートといった雑誌に時々出た。モデルとしての可能性を模索する毎日だった。
人生を変えたい。自分の納得した人生を歩むんだ。かつてこう考え、イタリアへ行った。アーティストになることを忘れてはいなかったが、世界最高の舞台で、それもいわば日本代表として挑戦できる舞台。その舞台が突然、目の前に現れた。挑戦したい衝動にかられた。出した結論が、ショービジネスの世界を目指すことだった。
コレクションには、ミラノともうひとつ、「パリ・コレクション」があった。再びつてをたどり、パリ市内のモデル事務所に所属。毎朝事務所で配布されるオーディションのリストを見ては、会場に足を運んだ。オーディションはなかなか通過できなかったが、ロシアのあるブランドから、声がかかった。
念願のパリコレデビュー当日。場所は、ルーブル美術館だった。華やかな舞台を歩き、全身に無数のフラッシュを浴びた。
アルマーニにドルチェ&ガッバーナ、ゴルチエ、アニエス・ベー 、ジュンヤ・ワタナベ。コレクション期間中、オーディション、ショウ、バックステージ、パーティーでは、名だたるブランドの創業者らが目の前にいた。雲の上の存在だった人たち。一言二言しか話せなかったが、ファッション界の最高峰の空気に触れたことは、山口の自信となった。
興奮状態の一日からしばらく経ったある日。山口は今後の身の振り方を冷静に考えた。パリコレ出演や雑誌撮影、すべて合わせてギャラは300ユーロ(当時のレートで約4万円)。旅費や宿泊費を合わせると、大赤字だった。そして何より、人種の壁を感じた。当時は白人や金髪のブラジル人モデルがもてはやされていた。「ラッキーパンチは当たったとしても、スーパーモデルにはなれないな」。モデル「ツヨシ・ヤマグチ」のイメージがどこかへ飛んでいってしまった。しかし、不思議と悔しさはなかった。
そんな折、「これ以上の仕事はない」というオファーが山口のもとに届いた。当時の山口が「最も凄い」と思っていた天才写真家アラーキーこと荒木経惟。そのアラーキーが、仏ヴォーグ誌で、最も勢いのある日本人の若手たちを撮影する。その特集のモデルを務めてほしい、というものだった。即座に快諾した山口。モデルの仕事はやり切ったという思いに達した。
撮影現場に絵のポートフォリオを持参していた山口。撮影後、アラーキーに差し出した。
「ほお、良いね。よくこんなの描けるね、俺は無理だよこういうの。けどこれ、小さいだろ、サイズ。アナタさ、体大きいんだから、もっと大きな絵を描きなよ」
そしてアラーキーはこう言葉を継いだ。
「いいと思うよ、続けなよ」
「道に迷うということは、自分に正直であること」
持っているスキルで、モデル以外に何ができるか考えた。自分は、デッサンが得意で、かつパソコンソフトで絵を描くこともできる。「よし、デザイン系の会社を受けてみよう」。すぐにデザイン会社への就職が決まった。
あるプロジェクトで一緒になった、テレビなどのCG制作を手がける会社社長がいた。「うちの会社来ないか」。ある日、飲みの席で声をかけられた。「酔っ払った状態で誘う人は、信用できないなあ」。そうした思いもあったが、表舞台から足を洗った身としては、自らの技術で他の人を支えられることに魅力を感じていた。
そのころ、ちょうど結婚したタイミングだった。より安定した待遇が欲しかった。「これは運命だ」と、後日、身支度を整え、その社長のもとへ赴いた。
社長の名は、小室泰樹。株式会社コーラルレッドの代表取締役(当時)だった。初日から、不思議ととても気が合った。
山口の役回りは、多忙な社長に代わって社内外へのフォロー、そして社長のタスク処理。NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京、BS、CS。あらゆるテレビ局とやり取りした。否応無しにビジネススキルが身についた。
そうした環境のおかげで、ビジネススキルが身についた山口は、2年後に独立を決意する。
仕事を覚えた。かすかに自信もついた。社長のやっていることと、同じことをしてみたい。同じステージで戦いたくなったのだ。
2008年に独立してからは、順調にテレビなどCG制作の案件を受注。2013年には法人化にこぎつけた。現在は、妻と二人三脚での会社運営を続けている。
「ずっと道を外した人生」と笑顔で話す山口。これまでの経験で気づいたことがある。それは、正直でいることの大切さだ。
自分に嘘をつくことこそ辛いことはない。一方で、自分に正直に、やりたいことをやれば、モチベーションを保ちながら楽しく仕事ができる。山口は「自分を偽り、我慢して、仕事する。そんなこと俺にはできない」と言い切る。
「道に迷うということは、自分に正直でいることの裏返し。みんな、もっと道に迷うべきですよね。そして、気づいてほしいんです」
ふうっと一息ついたのち、山口はこう言葉を継いだ。
「支えてくれる人は周囲に必ず常にいるはず。実際、俺もそうだった。そうした人への感謝を忘れず、道に迷えばいいと思います」
印象的な言葉を残し、新宿の夜の街に消えていった山口。これまで紆余曲折の人生を歩んだ山口の、道に迷うことが日本人に足りないという主張は、やたらと説得力がある。それにしても、正直な男は、今の東京の夜が本当によく似合う。
Astray Goods Life のライター・編集者。Astray Goods Japan 代表。高校講師、新聞記者を経て独立。趣味は民族楽器とランニング。