遊びの達人が見つけたコミュニティと幸福の関係性 坂井勇貴/34歳
いつも笑顔で、周りを明るくするこの男。常に“悪だくみ”をし、世間にインパクトを与え続けている。思いついたら行動せずにはいられない。行動がアイデアを呼び、アイデアが行動を呼ぶ。そんな坂井勇貴を知る人々は、彼をこう表す。
「遊びの達人」ーー。
「子どもは遊ぶことが仕事だ!」
長野で生まれ育った坂井。父親は世間一般的なサラリーマンだった。ただ、幼いころは、一般家庭とはちょっと変わった教育を受けた。
「勉強するな! 勉強する暇があったら、外で友達をつくって思いっきり遊べ! 子どもは遊ぶことが仕事だ!」
普段は温厚な父だが、ことあるごとに、こう怒鳴られた。
それにならい、幼少期のころは「大人をどう驚かせるか」「友達にどんないたずらをしようか」と日々考え、とにかく遊び倒した。
幼いころから「遊ぶことが自分の仕事」だと認識していた坂井は、中学進学後も毎日遊んでいた。テスト期間中も関係なし。その間、遊ぶ友達がおらずに困ったという。
遊ぶことに一生懸命だった坂井に、転機が訪れる。高校3年の担任との進路面談。担任から「卒業したらどうするのか」と問われた坂井は、心底驚いた。
「子どもの仕事は遊ぶことだった。大人になったら何を仕事にすればいいんだろう…」
その時は答えが見つからず、悩んだ挙句、両親に「時間をくれ」と願い出た。
「大人は全然遊んでいないし、楽しんでいない。大人たちの世界は、つまらなそう…。社会に出る前に、まずは現代社会のルールを学べば、違う世界を知ることができるのでは」
そう思った坂井は、高校卒業後、法律を学べる専門学校に通うことにした。2年間、毎日通い、学んだ。人生で初めて自主的に勉強し、無事に卒業した。しかし、坂井が感じたのは、「つまらない大人の社会」は知ることができても、他の社会は知れないということだった。
3万円を握りしめて豪州へ
専門学校卒業後、特に夢もなかった坂井。仕事を選ぶのではなく、とりあえず住む場所を決めて、そこでお金を稼ごうと考えた。沖縄の八重山諸島・小浜島のリゾートホテルの門を叩き、働き始めた。
まるで楽園のような美しい土地。リゾート地が肌に合った。
このまま死ぬまでここで働きながら暮らすってのも悪くない。そんな事を考え始めていたころ、衝撃的な出会いがあった。
定職に就かず、ボロボロの小屋に居住。魚を釣ったり、アクセサリーを作ったり、気ままに旅をしたり。大人なのにまるで子どものように楽しそうに暮らす人物。
「こんな生き方もあるのか」
刺激を受けた坂井は、もっと広い世界を見たいとの思いから、2年半務めたホテルを辞め「幸せな人生」を探求する旅人となった。どうしたらこの世界を楽しく生きられるのかを探る旅だ。しばらくの間、国内を旅して回った。
旅を終えた瞬間、こんな思いが生まれた。「もっともっと広い世界を知りたい」。坂井は3万円の現金だけ握り締め、単身でオーストラリアに飛んだ。
日本を発ち、シドニー空港に着いた坂井。英語はまったく話せない。そして、金もない。まずは仕事を探そう。英語で「仕事を探している」とはなんと話せばいいのか。脳内の知識を総動員して絞り出した英語は、「I go job?」。道行く人々からは、冷たい視線を受けるだけだった。
そんなことを数日続けていると、親切な人が日本語で書かれた求人誌を手渡してくれた。ページをめくると、現地の日本食レストランやラーメン店の求人記事が並んでいた。ふと、一つの求人記事が目にとまった。
オーストラリア最南端の「バイロンベイ」という町。テーマパーク内のカフェをリニューアルするのに伴い、フレンチもしくはイタリアンのシェフの募集していた。
「これだ!」
直感で、すぐさま電話をかけてみると、なんとオーナー夫人は日本人。すぐさまシドニーで会うことになった。
若さと情熱でなんとか押し切り、坂井は見事採用された。バイロンベイまでのチケットをオーナーからもらい、現地に着きすぐさま案内されたのは、オーナーの自宅。プール付きの自宅が2棟あり、アトリエも備え付けられていた。まるで映画の世界に出てくるような大豪邸。別次元の世界に圧倒されていると、夫人から「今晩のディナーを作ってくれない?」と提案された。
「これは試験だ」。そう気付いた坂井は、オージー・ビーフを使ったハンバーグを作ることにした。
スーパーで必要な材料を購入し、息込んでハンバーグを作った。しかし、何度挑戦しても、ハンバーグのあの丸みを帯びた形は形成されない。ひき肉は無残にも、ボロボロと崩れ落ちるだけだった。
この結果は当然のことだった。坂井のこれまでの料理経験といえば、ファミリーレストランでバイトをしたくらい。ハンバーグに「つなぎ」が必要なことすら知らなかった。
「試験」に不合格した坂井は、皿洗いとして働くことになる。悔しさ、そして焦り。皿洗いの立場からどうにか脱却しなくてはと考え始めた。
カフェには、シェフの他にも様々なポジションがあった。皿洗いから脱却し、オーナーに再度認めてもらいたい。独学で猛勉強をし、皿洗いからわずか1カ月で、バリスタのポジションを得た。そして、半年後には、カフェでナンバーワンのバリスタにのし上がった。
「仕事も遊びも暮らしも境界線をなくした村づくり」
ワーキングホリデービザの期限が近づいてきたころ。オーナーからこう告げられた。「ビジネスビザに切り替えて引き続き働いてくれないか」。その言葉を聞いた時、ようやくオーナーから認められたような気がして、嬉しかった。
ありがたい誘いではあったが、坂井は日本に帰国した。「仕事も遊びも暮らしも境界線をなくしたい」。この考えを具現化するため、「村づくり」に着手する。
2009年に長野に戻り、熊本県で妻と出会い、子どもを授かった坂井は、「村づくり」ができる場所を探した。
情報収集を続けていたところ、鹿児島・トカラ列島のある島の存在を知った。
人口約100人。警察署もなければ、医者もいない。たまたま募集していた「あなたの夢を叶えませんか?」という移住者募集の採用試験に応募。「環境に配慮されたエコな村づくり」を提案したところ、見事合格した。
しかし、現実は甘くなかった。古くから住んでいる島民らに、坂井の提案は、理解されなかった。
村づくりのために、何をすべきなにか。そうだ、農業だ。農業が地域を支えるのだ。思い立ったら、即行動。気候を生かしたオーガニックのバナナファームを立ち上げた。
当時、大手食品メーカーやドバイから商談の話が来るほど、名の知れる農園となった。しかし、島で4年半過ごし、2人目の子どもが生まれたころ、「本当にここでよいのか」との疑問が頭をよぎった。自分のやろうと思っている村づくりに対して、周りに理解者がいない現実もあり、村を出ようと決意した。
本当に自分ができるような村づくりができる場所はどこにあるのか。手当たり次第に探していたとき、2011年11月に開村した熊本県の宇城市三角町にある「サイハテ村」の存在を知った。
ルールもなければ、リーダーもいないという自由な村。魅力を感じた坂井は、2015年春、移住。自分のやりたいことを理解してくれる仲間もおり、とても居心地が良かった。
コミュニティ=コミュニケーション
サイハテ村に来てからは、急に忙しくなった。ゲストハウス運営やクラウドファンディング、WEBメディアで「サイハテ村通信」を連載。WEBを通じた仕事が多くなった。4年前までは、スマホも持たないような生活を送っていたのにもかかわらず。
最近では「居心地の良いコミュニティ」とは何かを、教授や受講生とともに、議論し学び合うオンライン大学も立ち上げた。場所や時間にとらわれず、オンラインで集まった仲間たちと、コミュニティ運営について学んだり、新しいビジネスを生み出したり、イベントを企画したりと、様々なことにチャレンジしている。
坂井にとって、コミュニティとは、村づくりとは何か。
「大きく言えば、コミュニティとはコミュニケーションの集合体。そして、村づくりとは個人の生き様が集まったもの。それぞれが自由に表現できて刺激を与え合える空間づくり。コミュニティが何かを理解することで、社会はもっと豊かになる」
彼をそこまで着き突き動かすものは何なのか。最後に聞いてみた。
「この世界で個性を発揮することは大変なことだけど、自分の個性を必要としてくれるコミュニティを見つけ、そのコミュニティが活発になれば、幸福感が得られる。だから、いろんなコミュニティの構築、育成に携わろうと思ったんです。その先に、平和な世界が待っていると信じています」(敬称略)
Astray Goods Life ライター。舞浜の「夢の国」をこよなく愛す乙女。仕事終わりにインコと遊ぶことが楽しみ。